奈良時代
710–794 / がっけんぽスタディ
01 大仏の向こうに、ひとの営み。
奈良時代は、都・法律・仏教を使って大きな国を動かそうとした時代。その挑戦を支えたのは、田を耕し、税を運び、文字を記した人々でした。
まずは、この3本の線で読む
1本目は「しくみ」。天皇と役所が人・土地・税を把握する律令国家です。2本目は「権力」。皇族、藤原氏、橘氏、有力な僧侶が、協力したり対立したりします。3本目は「暮らしと文化」。疫病や労役の厳しさと、万葉の歌や国際的な工芸が同じ社会に存在していました。
大仏造立を例にすると、聖武天皇の信仰だけでは説明が終わりません。疫病から社会を立て直す願い、資源を集める行政、金属を扱う技術、現場で働く人の生活まで、一つの出来事から時代全体が見えてきます。
710年から794年。ただし、奈良に都があったのは?
本教材では、元明天皇の平城京遷都(710年)から桓武天皇の平安京遷都(794年)までを奈良時代として扱います。一方、平城京から長岡京へ移る784年で区切る説明もあります。何を基準に区分しているかを確かめましょう。
平城京が中心となった710〜784年の間にも、恭仁京・難波京・紫香楽宮への移動があります。「奈良時代=ずっと奈良の同じ宮殿」ではありません。また、政治の基盤となる大宝律令は701年。前の飛鳥時代から続く変化として読むのがコツです。
| 前の時代から | 奈良時代の挑戦 | 次の時代へ |
|---|---|---|
| 大宝律令・藤原京 | 平城京と官僚組織を運営 | 長岡京を経て平安京へ |
| 天皇を中心とする国家づくり | 皇族・貴族・僧侶の政争 | 藤原氏も世代・家ごとに変化 |
| 大陸・半島からの学び | 遣唐使・仏教・天平文化 | 文化と制度は形を変えて続く |
読み方の約束
制度の「原則」と実際の運用、史料に書かれたことと後世の解釈を分けて説明します。図は関係を理解するための概念図です。
この章の要点
奈良時代は「国をどう動かし、危機をどう乗り越えるか」をめぐる試行錯誤。
02 平城京は、国家の大きな舞台。
まっすぐな大路、北に置かれた宮、全国から届く荷物。都は、政治を目に見える形にした場所でした。
宮から南を向く天皇が基準なので、東が左京、西が右京。区画・施設を単純化した概念図で、縮尺や条坊数は実測どおりではありません。
「京」と「宮」を分けて考える
平城京は、役所・貴族の邸宅・寺院・市・人々の住まいを含む都市全体。平城宮は、その北側に置かれた天皇の生活と政治・儀式の中枢です。大極殿は重要な儀式の場、朝堂院は朝廷の政務や儀礼を行う空間でした。
都の基本の区画は唐の長安などの都城を参考にしました。南北の条、東西の坊によって街を整理する条坊制が特徴です。ただし、外国の都市をそのまま複製したのではなく、地形や日本の政治・社会に合わせてつくられています。
右京と左京は、地図の見た目と逆?
宮から南を向く天皇を基準にすると、東が左、西が右。だから、北が上の地図では、右側が左京、左側が右京です。朱雀門から南へ延びる朱雀大路が、左右を分ける大きな軸になります。
平城京の基本部分は東西約4.3km、南北約4.8kmで、東へ張り出す外京もありました。人口には幅のある推計があり、奈良文化財研究所の紹介では5〜10万人。道路や邸宅の規模が分かっても、すべての住民数が正確に分かるわけではありません。
きれいな碁盤の目の中に、暮らしの差がある
貴族の広い宅地もあれば、小さな住まいが集まる区画もありました。東市・西市には品物が集まり、宮や寺では多様な仕事が生まれます。地方から税を運ぶ人、工人、役人、商いをする人が出入りして、都の日常をつくっていました。
遺跡に残る柱穴・溝・井戸・捨てられた木簡は、整った都市計画の内側にある実生活を教えます。現在見られる復原建物は、発掘調査などをもとに再現されたもの。古代の建物がすべてそのまま残っているわけではありません。
この章の要点
平城京=都市全体、平城宮=政治・儀式・天皇の生活の中枢。
03 法律で動かす国。でも、人の力も大きい。
天皇の命令が地方へ届き、地方の物と情報が都へ戻る。その往復を、役所と文書が支えます。
律は罰、令は国を動かすルール
律は刑罰に関する法、令は行政組織や人々の負担・身分などを定める法です。701年の大宝律令で国家の基本的な制度が整えられ、その後も修正されました。藤原不比等らが編纂した養老律令は718年に完成し、施行は藤原仲麻呂の時代の757年です。完成年と施行年を混同しないようにしましょう。
律令国家という呼び名は、法律さえあればすべて予定どおり動いた、という意味ではありません。現場の人手、地域の有力者との関係、災害や疫病に対応して、運用を変えたり新しい命令を出したりする必要がありました。
中央は二官八省、地方は国・郡・郷
中央では、神祇官が神々の祭りを担当し、太政官が政務を統括しました。太政官の下には、中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内の八省があり、文書、人事、戸籍・租税、軍事、司法、財政、宮廷の仕事などを分担します。現代の省庁と役割が完全に一致するわけではありません。
地方には、都から派遣される国司と、その地域の有力者から任命される郡司がいました。国の下に郡、さらに里・郷などの単位が置かれます。奈良時代の途中には郷里制への変更と里の廃止があり、「国・郡・郷」という呼び方が全期間に同じ形で固定されていたわけではありません。
役職と位階は、別のもの
左大臣・右大臣などの官職は仕事の地位、正三位・従二位などの位階は身分上の序列です。位階によって就ける官職や待遇が変わりました。学問や実務の能力も大切でしたが、有力な家柄の子孫が有利になる蔭位の制などもあり、誰でも同じ条件で昇進できた社会ではありません。
官人を育てる大学・国学、各地をつなぐ道路や駅の制度も国家運営の一部でした。都の決定を伝えるだけでなく、地方の人口・収穫・納税の情報を集めることが、政治の土台になっていたのです。
ここが政治史につながる
制度上の役職と、天皇・皇后との親族関係や信頼関係の両方を見ると、藤原氏や有力な僧侶がなぜ力を持ったかを理解しやすくなります。
この章の要点
律令の国家は、役所の分担・地方との連絡・文書の管理で成り立つ。
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04 人を数える。田を配る。税を見込む。
奈良時代の国づくりには、巨大な建物より地味に見える「名簿」が欠かせませんでした。
戸籍は6年ごと、計帳は毎年
戸籍は、人々の家族関係や年齢・身分などを記録する基本台帳で、原則として6年に一度つくられました。計帳は毎年つくられ、納税の対象となる人の把握などに使われます。人の数が分からなければ、田をどれだけ配るかも、翌年に税がどれだけ入るかも決められません。
「戸」は行政上まとめられた単位で、現代の核家族や一軒の家と、そのまま同じではありません。帳簿の区分を、現在の家族の感覚だけで読み替えないことが大切です。
口分田は、自由に売れる土地ではない
班田収授の制度では、原則として6歳以上の人に口分田を与えました。良民の男子は2段、女子はその3分の2が基準です。身分による違いがあり、地域の土地の広さなどによっても実際の配分は異なりました。
口分田は受給者が耕作できる田で、売買は原則禁止。亡くなった人の田は、次の班田の際などに回収して再配分する建前でした。「田を与えられる」ことと「家族が永久に自由な私有地として持つ」ことは区別します。
制度を動かすだけでも、たいへんだった
人の出生や死亡を確認し、田の面積と境界を調べ、配分し直すには、多くの実務が必要でした。条里という土地の区画も、耕地の場所や面積を整理する手がかりです。ただし、都の条坊制と農村の条里地割は、似た形でも同じ制度ではありません。
土地不足、人口移動、税負担、地域差が重なると、帳簿と現実のずれが生じます。班田収授は一度に全国で均等に行き渡り、同じ形でずっと続いた、という単純な制度ではありませんでした。
| しくみ | 主な役割 | 覚え分け |
|---|---|---|
| 戸籍 | 身分・親族関係などの基本台帳 | 原則6年ごと |
| 計帳 | 年ごとの住民・課税情報を把握 | 毎年 |
| 班田収授 | 口分田を配り、回収・再配分 | 帳簿と土地を結びつける |
| 条里地割 | 耕地を区画して位置を整理 | 都市の条坊制と区別 |
この章の要点
名簿・田・税は、一つにつながった国家のしくみ。
05 税は、米だけでは終わらない。
布を織る人、荷物を運ぶ人、地方で工事をする人。国の財源は、家族の時間や体力ともつながっていました。
「何に」「何で」かかる税なのか
租は田の面積に応じて稲で納める税。庸は、都での年10日の歳役に代える布などの納付物。調は、主に成人男子に課され、絹・麻布・海産物などを納める税でした。負担には年齢や地域、身分による違いや免除があるため、「全員に同じ税」とまとめないようにしましょう。
調に含まれる「綿」は、今の木綿と同じと考えると誤解します。古代の綿には、繭から作る真綿がありました。税の名前を覚えるだけでなく、材料や生産の工程を想像すると、家族が担った仕事が見えてきます。
運ぶ・働く・守ることも、重い負担
庸・調などを都へ運ぶ運脚は、遠い道のりを自分たちで支えなければならず、輸送そのものが大きな負担でした。雑徭は地方での土木工事などの労役。軍団での兵役、都を警備する衛士、北部九州などを守る防人も、農作業や家族の生活に影響しました。
稲を貸し付けて、秋に利息を付けて返させる出挙もあります。種稲を確保する面がある一方、利稲は官の財源となり、返済が人々の重荷にもなりました。税・労役・輸送・兵役を合わせて考える必要があるのです。
逃亡や浮浪は「さぼり」の一言では読めない
課税のもととなる登録地を離れる人、帳簿に記された年齢や性別などを偽る例があるのは、国家の把握と生活の現実がかみ合わなくなったためです。飢饉・疫病・土地不足・過重な負担など、背景を合わせて考えます。
国は税を集めなければ役所や事業を維持できません。しかし、負担が生活を壊すと税を負担する人も減ってしまう。この緊張が、土地の開発策や負担の見直しにつながっていきます。ここは、次の三世一身法・墾田永年私財法への入口です。
| 用語 | 内容 | 暮らしとのつながり |
|---|---|---|
| 租 | 田の面積に応じた稲 | 収穫した稲の一部を納める |
| 庸 | 都の歳役に代える布など | 織物などを準備する |
| 調 | 繊維製品・地域の産物など | 地域の生産と家族の手仕事 |
| 雑徭 | 地方の土木工事など | 農作業の時間も削られる |
| 運脚 | 都への輸送 | 長距離移動と費用の負担 |
| 兵役・出挙 | 軍務/稲の貸付と利息 | 労働力・家計に影響 |
この章の要点
「租だけなら軽そう」で判断せず、物・輸送・時間・兵役を合わせて見る。
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06 新しい田を、だれが開く?
国は田を増やしたい。でも、苦労して開いた田を長く持てなければ、開発は進みにくい。そこでルールを変えていきます。
723年、まずは期限付きの保有を認める
三世一身法では、新しく灌漑施設を設けて開いた田は三世代、既存の施設を利用した開墾は本人一代の保有を認めました。開墾に必要なのは、種や道具だけでなく、水路をつくり、土地を整える人手と時間です。
期限が来れば返さなければならない仕組みは、長期の投資を進める動機として十分とは限りませんでした。さらに、疫病などで人口と生産が打撃を受けた後、国家は税の基盤となる耕地の拡大を必要としました。
743年、墾田を永く私財にする
墾田永年私財法は、新しく開いた田を、期限なく私財として保有することを認める法です。ただし国司の許可や身分・位階に応じた面積制限があり、「どこでも、だれでも、無制限に土地を自分のものにできる」という意味ではありません。
資金・人手・技術を集めやすい貴族や大寺院は、大きな開発を進めました。このような開墾地や経営は初期荘園の形成につながります。一方で地域の人々も開発に関わり、制度の変化は、都の有力者だけで完結した話ではありません。
「743年から全部私有・全部免税」は誤解
私財として認められたのは、法の対象となる墾田です。口分田の配分や税の仕組みが、その日に一斉になくなったわけではありません。私有の承認と税の免除も、別の問題です。
後の平安時代に発達する、不輸・不入などの特権を持つ荘園を、そのまま奈良時代の初期荘園に当てはめないこと。長い変化の最初の段階として押さえると、次の時代にもつながります。
考えるとおもしろい
国が開発を促すために私有を認める。その政策が、有力者の土地経営を広げる方向にも働く。政策の目的と、長い時間をかけた結果は、必ずしも同じではありません。
この章の要点
723年は期限付き、743年は墾田の永年保有。私有と免税を混同しない。
07 藤原氏を、ひとつの家で終わらせない。
同じ「藤原」でも、世代も家も立場も違います。まずは不比等を中心に、四兄弟と娘たちのつながりを整理しましょう。
不比等の4人の息子 → 四家の祖
- 南家武智麻呂むちまろ
子に藤原仲麻呂
- 北家房前ふささき
後の平安時代にもつながる
- 式家宇合うまかい
子に藤原広嗣
- 京家麻呂まろ
四兄弟の一人
主要な親子・婚姻関係を抜粋。不比等は聖武天皇の母方の祖父で、皇后の父でもあります。配偶者・子女の全員を示したものではありません。
始まりは飛鳥時代。奈良で土台を築くのは不比等
藤原氏の祖となる中臣鎌足は、飛鳥時代の政治家です。669年に藤原の姓を与えられましたが、奈良時代の開始時にはすでに亡くなっています。その子の藤原不比等が、律令の編纂や朝廷の政治で重要な役割を果たしました。
不比等は701年の大宝律令、718年に完成する養老律令の編纂に関わります。法制度を整える仕事と、皇室との親族関係を深めること。その両方が、藤原氏の基盤になりました。720年に不比等が亡くなった後は、子の四兄弟が政界で力を伸ばします。
四家を、祖と次の世代で結ぶ
武智麻呂を祖とする南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家が藤原四家です。南家から仲麻呂、式家から広嗣が出た、と事件の人物に結びつけると覚えやすくなります。北家は後に摂関政治の中心となりますが、それは主に平安時代に進む展開です。
奈良時代の藤原氏が、いつでも一枚岩で最高権力を独占していたわけではありません。737年に四兄弟が亡くなると勢力が後退し、別の世代が再び台頭します。764年に仲麻呂が敗れても、藤原氏全体が滅びたわけではありませんでした。
宮子と光明子が、政治史の鍵になる
不比等の娘・宮子は文武天皇との間に聖武天皇をもうけました。もう一人の娘・光明子は聖武天皇の皇后となり、阿倍内親王、後の孝謙・称徳天皇の母になります。つまり不比等は、聖武天皇の母方の祖父であり、皇后の父でもあるのです。
母方の親族である外戚は、天皇の養育・宮廷の人間関係などを通じて政治的な影響力を持ち得ました。ただし、婚姻があれば必ず権力を得られる、という自動的な制度ではありません。皇族・他の貴族との関係や、本人の地位・活動も合わせて見ます。
橘三千代も、相関図から外せない
県犬養三千代は、藤原不比等との間に光明子をもうけた人物です。また、橘諸兄は三千代の前の婚姻による子で、光明皇后の異父兄にあたります。藤原氏と橘氏は単なる「敵同士」という関係だけでは理解できません。親族のつながりと、政治上の対立は重なり合っていました。
四家のその後まで、視野を広げる
南家の仲麻呂が敗れた後も、北家の永手、式家の良継・百川らが政治に関わりました。永手は房前の子で、称徳朝の左大臣となり、770年の光仁天皇の擁立にも関与します。式家の良継・百川は宇合の子。広嗣と同じ式家でも、違う時期に違う立場で活動していることが分かります。
良継の子・種継は、桓武天皇のもとで長岡京の造営を担います。京家では麻呂の子・浜成が、文学と政治の双方に関わりました。四家は「祖の名前を覚えたら終わり」ではなく、次の世代の活動にたどり着くための地図になります。ただし、後半の皇位継承で各人が何を意図したかには研究上の議論もあり、一つの陰謀の物語として断定しません。
| 家の祖 | 主要な子・孫 | 本文で追う場面 |
|---|---|---|
| 南家・武智麻呂 | 子:仲麻呂 | 孝謙・淳仁朝の政権、764年の乱 |
| 北家・房前 | 子:永手 | 称徳朝、770年の光仁擁立 |
| 式家・宇合 | 子:広嗣・良継・百川/良継の子:種継 | 740年の乱、後半の政局、長岡京造営 |
| 京家・麻呂 | 子:浜成 | 歌学・奈良時代後半の政治 |
この章の要点
鎌足→不比等→四兄弟。南家の仲麻呂、式家の広嗣、娘の宮子・光明子を結ぶ。
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08 権力を変えた事件と、見えない病。
729年の政変と、737年の天然痘。政治家の計画だけでは、時代の行き先は決まりませんでした。
皇族の有力者、長屋王
長屋王は天武天皇の孫で、左大臣として政治に大きな力を持った皇族です。不比等の死後に存在感を高めましたが、729年、呪いによる反逆などの疑いをかけられ、妻の吉備内親王やその子らとともに自死に追い込まれました。これが長屋王の変です。
長屋王の罪が事実として立証された、と受け取らないことが大切です。藤原四兄弟の台頭や光明子の立后と関連づけて説明されますが、動機・経緯を単純な悪役の陰謀だけで言い切るのも慎重であるべきです。妻や子すべてが亡くなったわけではなく、別の妻との子は生き残りました。
木簡が、歴史の登場人物を「生活者」にする
発掘で見つかった大量の木簡によって、長屋王の邸宅の場所や邸内の経営が明らかになりました。文献では政争の犠牲者として登場する人物が、物資を集め、人を働かせ、大きな家を運営する存在として見えてきます。
ここに歴史のおもしろさがあります。歴史書の記述だけを読む場合と、遺跡・荷札・帳簿を重ねる場合とでは、人物の輪郭が変わります。発掘成果は、単なる教科書の挿絵の材料ではなく、理解を更新する根拠です。
737年、四兄弟が次々に亡くなる
735年ごろから九州で流行した天然痘は、737年には都を含む広い範囲に被害をもたらしました。武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟も、この年に相次いで亡くなります。政治の中心人物だけでなく、生産や行政を支える多くの人が失われました。
藤原氏の勢力が後退すると、橘諸兄が政権の中心となり、唐から帰国した吉備真備や僧の玄昉らが重用されました。疫病は健康上の危機であると同時に、人事・税収・農業・信仰の問題でもあったのです。被害人口には研究上の推計があり、確定した一つの割合としては示せません。
史料の読み方
「反逆の疑いをかけられた」と「本当に反逆を企てた」は別です。事件後につくられた記録は、勝者の立場も含みます。
この章の要点
729年は長屋王の変、737年は天然痘による四兄弟の死。原因を分けて押さえる。
09 聖武天皇は、なぜ都を動かしたのか。
疫病の後に反乱、そして短期間の都の移動。聖武朝は、安定した大仏のイメージ以上に揺れ動く時代でした。
- 710〜平城京元明天皇の遷都から
- 740恭仁京国分寺の詔は741年
- 744難波京紫香楽への行幸も続く
- 745紫香楽宮大仏の詔は743年、都となる前
- 745平城京へ戻る東大寺で大仏造立を進める
行幸先・宮の造営と、正式に都を移す時期は区別して整理しています。
740年、九州で藤原広嗣が兵を挙げる
藤原広嗣は式家の宇合の子で、大宰府にいました。橘諸兄のもとで重用される吉備真備・玄昉らを批判し、740年に挙兵します。朝廷が送った軍に鎮圧され、広嗣は処刑されました。
737年に父の世代が亡くなってからわずか3年。広嗣の乱は、藤原氏の後退後に成立した政権への不満が武力化した事件として整理できます。ただし、地方の状況や参加した人々にも目を向ける必要があります。
恭仁・難波・紫香楽、そして平城へ
聖武天皇は740年に平城京を離れ、恭仁京を都としました。744年には難波京、745年には紫香楽宮へ移り、その年のうちに平城京に戻ります。紫香楽宮には、正式に都を移す前から行幸・造営の段階がありました。
各地への移動は、政治上の不安、災害、地理的な条件、仏教事業や天皇の意図などを合わせて検討する必要があります。「怖くて逃げ続けた」と気持ちを断定して終わると、分からない部分を想像で埋めてしまいます。
大きな政策は、都が動いている最中にも進む
741年の国分寺建立の詔は恭仁京の時期、743年の大仏造立の詔は紫香楽で出されました。都を移す動きと、仏教によって国を安定させようとする政策は、同時に進んでいます。
一方、宮殿を造り直し、物資や役人を移すには多くの費用と労働が必要です。政策を決める側の目的と、それを実行する人々の負担を、両方から読むことが大切です。
この章の要点
広嗣の乱の後、740恭仁→744難波→745紫香楽→745平城。大仏の詔は743年。
10 国を守る祈りを、大きなかたちに。
仏教は信仰であり、学問であり、巨大な共同事業でもありました。国家と民衆を結ぶ人々にも注目します。
国分寺は、各国をつなぐ寺の仕組み
741年、聖武天皇は各国に国分寺・国分尼寺を建てるよう命じました。仏教の力で国を安定させる鎮護国家の考えが背景にあります。東大寺は国分寺の中心となる寺として重要な位置を占めます。都の法華寺も国分尼寺の中心と位置づけられました。
仏教が重んじられたからといって、神々への祭りがなくなったのではありません。疫病や災害に対して、仏教の法会も神への祈りも行われます。当時の人々の世界観を、現代の宗教区分だけで切り分けないようにしましょう。
743年の造立の詔から、752年の開眼供養へ
大仏は盧舎那仏を表す像です。743年に造立の詔が出され、平城へ戻った後に東大寺で鋳造が進められました。749年に仏身の鋳造が終わり、752年には大仏に目を入れる開眼供養が行われます。金属、木材、資金、運搬、職人の技術と労働が集まる大事業でした。
聖武天皇だけでなく、民衆の協力を集めた行基、寺の造営に関わった良弁、開眼の導師を務めたインド出身の菩提僊那も重要です。東大寺ではこれらの4人を四聖として伝えています。行基は初めから朝廷に歓迎されたのではなく、活動への警戒を経て、国家の事業にも協力する立場となりました。
鑑真が伝えたのは、僧になるための正式な戒律
唐の僧・鑑真は、度重なる渡航の失敗を経て、753年に日本へ到着し、754年には奈良で授戒を行いました。来日を753年、奈良入り・授戒を754年と分けると、資料に見られる年の違いを整理できます。759年には唐招提寺を開きました。
授戒は、仏教者として守る戒律を受けることです。僧侶を正式に認める基準は、寺院や国家にとっても大切でした。唐から来た知識や人々が、日本の制度づくりを具体的に支えていたことが分かります。
南都六宗は、仏教を学ぶ学派
三論・成実・法相・倶舎・華厳・律を南都六宗と呼びます。経典や思想、戒律などを研究する学派としての性格が強く、現在のように信者が一つの宗派の寺だけに属する姿を、そのまま想像しないことが大切です。寺は祈りの場に加え、学問・写経・医薬・技術が集まる場でもありました。
いま目の前にある東大寺は?
東大寺は戦乱などで焼失・再建を経験しています。現在の大仏殿は江戸時代に再建されたもの。創建の歴史と、現存する建物の年代を分けて見学すると理解が深まります。
この章の要点
741国分寺、743大仏の詔、752開眼。鑑真は753来日・754奈良で授戒・759唐招提寺。
この章の出典 [21] [22] [20] [28] [29] [2]
11 仲麻呂の上昇と、二つの「なかまろ」。
「橘奈良麻呂」と「藤原仲麻呂」。似た名前でも、757年と764年では主役と立場が入れ替わります。
- 749〜孝謙天皇のもとで仲麻呂が台頭光明皇太后とのつながりが後ろ盾に
- 757橘奈良麻呂の計画が発覚仲麻呂に対抗する人々が処罰される
- 758淳仁天皇が即位仲麻呂は恵美押勝の名を得る
- 760光明皇太后が死去仲麻呂が後ろ盾を失う
- 764仲麻呂が敗死、称徳天皇が即位孝謙上皇が再び天皇に
光明皇后の支えで、南家の仲麻呂が台頭
藤原仲麻呂は、南家の祖・武智麻呂の子。不比等の孫です。叔母にあたる光明皇太后とのつながりを足場に、政治の中枢へ進みました。749年に聖武天皇から譲位されたのは、娘の孝謙天皇。皇太后に関わる紫微中台なども、仲麻呂が影響力を強める場となります。
仲麻呂は、唐風の官名・儀礼を採り入れる政策も進めました。政治史の対立だけでなく、どんな制度を実行しようとした人物かを見ると、政権の姿が具体的になります。757年に養老律令が施行されたことも、この時期の重要な政策です。
757年、橘奈良麻呂の計画が発覚
橘諸兄の子・奈良麻呂らは、仲麻呂が推す大炊王の立太子などに反対し、政権を倒す計画を立てました。しかし、実行前に発覚し、厳しい取り調べと処罰が行われます。これが橘奈良麻呂の乱です。奈良麻呂は獄中で亡くなりました。
758年、大炊王は淳仁天皇として即位します。仲麻呂は恵美押勝の名を与えられ、政権の中心へ。孝謙は上皇となります。ここまでは「仲麻呂が政敵を退けて上昇する」段階です。
764年、今度は仲麻呂が兵を挙げて敗れる
760年に光明皇太后が亡くなると、仲麻呂は大きな後ろ盾を失いました。その後、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の対立が深まり、上皇の信任を得る道鏡の存在も政局の焦点となります。
764年、軍事権を握ろうとした仲麻呂側の動きが発覚し、武力対立になります。仲麻呂は近江へ逃れますが敗死。淳仁天皇も廃され、孝謙上皇が称徳天皇として再び即位しました。これを藤原仲麻呂の乱、または恵美押勝の乱といいます。
| 年 | 人物と立場 | 結果 |
|---|---|---|
| 757 | 橘奈良麻呂:仲麻呂に対抗 | 計画が実行前に発覚し、仲麻呂が優位に |
| 764 | 藤原仲麻呂(恵美押勝):孝謙上皇側と対立 | 仲麻呂が敗死、淳仁廃位、称徳が即位 |
この章の要点
757年は橘奈良麻呂、764年は藤原仲麻呂。恵美押勝は仲麻呂と同じ人物。
この章の出典 [24] [25] [26] [6] [17]
12 天皇の信任と、皇位をめぐる緊張。
僧の道鏡が政治の頂点近くに進んだ時代。人間関係をうわさで埋めず、役職と事件の流れで追います。
孝謙と称徳は、同じ一人の天皇
孝謙天皇は749〜758年、称徳天皇は764〜770年の在位名です。同じ人物が再び即位することを重祚といいます。称徳朝では、道鏡が太政大臣禅師、さらに法王となり、強い政治的影響力を持ちました。
僧侶の信仰上の役割と、朝廷の政治上の地位が重なり、皇位のあり方にも関わる緊張が生まれます。称徳と道鏡を、根拠が不確かな恋愛や性的な逸話だけで説明するのは避け、政治と信仰の関係から読みましょう。
769年、宇佐八幡神託事件
道鏡を天皇にすれば世の中が治まる、という趣旨の宇佐八幡の神託が朝廷にもたらされました。確認のために派遣された和気清麻呂は、これとは反対の内容を報告し、流罪となります。皇位と神の意思を結びつけた、政治上の重大な事件でした。
ただし、神託の発生や各人物の意図をめぐっては、記録の性格も含めて検討が必要です。後世の顕彰や物語の中の英雄・悪役像と、史料から確認できる事件の骨格を分けて考えます。
770年、称徳の死で政治の流れが変わる
称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野の薬師寺へ退けられました。その後に即位した光仁天皇は天智天皇の孫で、天武系から天智系の皇統へと重心が移ります。藤原永手・良継らの有力貴族も、この政局に関わりました。
光仁朝では財政・地方行政などの立て直しが課題になります。781年には桓武天皇へ。称徳の死で仏教が消えたのでも、貴族の対立が終わったのでもありません。政治と寺院との距離、皇位継承、国家の負担が、次の都づくりに引き継がれます。
この章の要点
孝謙=称徳。769年は宇佐八幡神託事件、770年に光仁天皇が即位。
この章の出典 [27] [26] [17] [2] [46] [47]
13 海を越えると、世界が広がる。
奈良時代の日本は、閉じた島の国ではありません。人・制度・技術が海を渡り、そのたびに新しい選択が生まれました。
遣唐使は、制度と知識を学ぶ国家の事業
唐は東アジアの大国で、都の長安には各地の人や物が集まりました。遣唐使は、外交の使節であると同時に、法律・仏教・学問・技術などを学ぶ人々を伴う事業です。日本の律令や都城、儀礼にも、唐や朝鮮半島との交流が深く関わっていました。
航海には難破や漂流の危険があり、出発すれば必ず全員が帰れるわけではありませんでした。新しい知識を得ることは、多くの費用と危険を引き受けることでもあったのです。
同じ717年に渡っても、人生は違う
吉備真備・阿倍仲麻呂・玄昉は717年の遣唐使に伴って唐へ渡りました。吉備真備は735年に帰国し、学問や実務を政治に生かします。玄昉は多くの経典などを持ち帰り、橘諸兄の政権で重用されました。
阿倍仲麻呂は唐で官人として活動し、日本へ帰国できないまま生涯を終えました。三人を一列に覚えるより、「帰国して日本の政治に関わった人」と「唐で生きた人」の違いを見ると、交流の具体像が分かります。後には鑑真のように、日本へ来て生涯を過ごす人もいました。
唐だけでなく、新羅・渤海にも目を向ける
朝鮮半島の新羅との間には、外交上の立場をめぐる緊張がありながら、人・物・文化の往来が続きました。朝廷が描く国際秩序と、実際に動く商人や使節の関係を同じものと考えないことが大切です。
中国東北部などを領域とした渤海からは、727年に初めて使節が到着しました。日本海も交流の道だったのです。「遣唐使だけで外国の文化が届いた」のではなく、さまざまな経路と担い手がありました。
伝わったものを、そのまま使ったわけではない
仏教の経典や造像技術、漢字の文書、楽器や染織の意匠。外から届いたものは、国内の工人・僧侶・官人によって学び直され、作り直されました。天平文化の国際性は、外国製の品が並んでいたというだけでなく、異なる知識を受け取って変えていく力にもあります。
この章の要点
国際交流は、制度・信仰・技術と、それを運ぶ一人ひとりの人生から読む。
この章の出典 [17] [28] [31] [38] [3]
14 都の外では、どんな国づくりが進んだ?
平城京から見た「全国」と、各地域で生きた人々の世界は、重なりながらも同じではありません。
国司だけでは、地域を動かせない
都から来る国司は、地域の事情をよく知る郡司らと協力して行政を進めました。国府には役所や倉などが置かれ、租税・裁判・文書のやり取りを担います。国分寺の建立も、地方社会の人手や物資と切り離せません。
大宰府は北部九州で外交・防衛などを担う重要な役所でした。外国からの使節、海の交通、防人の勤務、そして広嗣の乱。都の政治史で見た出来事を、地域の位置から見ると結びつきが分かります。
東北では、城柵を拠点に支配を広げる
712年に出羽国が置かれ、724年には多賀城が築かれました。多賀城は陸奥国の国府であり、東北の政治・軍事の拠点にもなります。城柵は、後世の山城をそのまま想像するより、政庁や倉などを備えた行政・軍事施設として捉えましょう。
朝廷が「蝦夷」と呼んだ人々との間には、交易・交渉・服属・戦闘など、さまざまな関係がありました。この呼び名は朝廷側の分類で、同じ性格の一集団を意味するわけではありません。地域の人々を、国づくりに取り込まれるだけの存在として描かないことが必要です。
国家の拡大には、対立と負担も伴う
南部九州では、720〜721年に、朝廷が隼人と呼んだ人々との大規模な戦いが起こりました。支配を広げる動きは、租税や労役の制度、移住、武力と結びつきます。朝廷の記録に「反乱」とある場合も、その地域の人に何が起こり、どんな立場があったのかを考えましょう。
現在の国境・都道府県・民族の区分を、そのまま8世紀に当てはめることはできません。奈良時代の国家は、領域を広げ、異なる地域との関係をつくりながら変化していたのです。
この章の要点
律令国家の地図は、都からの命令だけで完成したのではなく、地域との交渉と対立で動いていた。
この章の出典 [30] [31] [45] [5] [49]
15 名も残らない人にも、毎日があった。
宮殿や宝物の華やかさだけでは、奈良時代は見えません。食べる、働く、家族を支える。日常の手がかりを集めます。
食卓にも、立場や地域の違いがある
米をはじめとする穀物、野菜、魚介、海藻、塩などが食生活を支えました。ただし、都の上層の人々と一般の人々、各地の農村で、量も品目も同じではありません。「奈良時代の人は毎日この献立」と一つに決めることはできません。
木簡の食料名、動物や魚の骨、植物の種子、食器などを合わせて考えます。土師器や須恵器、木の器は、食べ方や生活の違いを知る資料です。現代の復元料理は、こうした根拠から組み立てた推定であり、当時の食事を完全に再現できたという意味ではありません。
華やかな衣服の裏側に、作る人がいる
宮廷の衣服には身分や位階を示す役割があり、唐の文化の影響も受けました。一方、日常の衣料や税としての布は、麻や絹などの原料を育て、糸を作り、織り、仕上げる手仕事の積み重ねです。
農業のほか、都や寺院には木工・金属加工・土器づくり・写経などの仕事がありました。役所の帳簿や木簡には、人員や食料の支給の記録も残ります。「労働力」という言葉の向こうに、空腹や疲れを感じた一人ひとりがいました。
女性の天皇と、社会の女性を分けて見る
元明・元正・孝謙/称徳という女性の天皇が活躍しました。光明皇后や橘三千代も、宮廷・仏教・福祉に関わる重要な人物です。女性を政治史から見落とさないことが、人物関係を理解する近道になります。
一方で、女性の天皇がいたから社会全体が現在の意味で男女平等だった、と結論づけることはできません。田の配分などにも性別による違いがありました。農作業や布づくりなど、記録に名前が残りにくい女性の働きも、社会を支えていたのです。
良民・賤民という制度上の区分があった
律令では人々を「良民」「賤民」などに区分し、さらに官戸・陵戸・家人・奴婢などの身分が定められました。これらは当時の法制度の歴史用語で、人間としての価値を示す言葉ではありません。土地の配分や移動・労働などの条件には大きな違いがありました。
病気や貧困に対する救済も行われ、光明皇后の悲田院・施薬院に関する活動はその例です。ただし、現代の社会保障が整っていたのと同じではありません。支える仕組みと、救いが届かなかった厳しさの両方を見ます。
声の小さな資料を読む
大きな歴史書には出にくい暮らしも、荷札、食料の支給記録、歌、住居跡から見えてきます。一つの資料を社会全体の姿と決めつけず、別の資料と照らし合わせましょう。
この章の要点
暮らしは一様ではない。地域・身分・性別・仕事の違いと、史料に残りにくい人を見る。
この章の出典 [43] [44] [42] [11] [8] [23] [2] [5]
16 歴史をつくる本、暮らしを伝える歌。
文字で何を残すのか。国の由来、地方の地理、ひとの感情。それぞれの本には、違う目的と視点があります。
古事記と日本書紀を、役割から比べる
古事記は712年に成立し、元明天皇の命令で太安万侶がまとめました。稗田阿礼が誦習した帝紀・旧辞に基づくとされ、神話から推古天皇までの物語を記します。古事記序文が伝える編纂の説明と、実際に何が起きたかという検証は分けて考えます。
日本書紀は舎人親王らが編纂し、720年に完成した国家の歴史書です。漢文で年代に沿って記す編年体をとり、異なる伝承を併記する箇所もあります。どちらも国の由来と天皇の統治を語る性格があり、書かれた神話や遠い過去の記事を、そのまま確認済みの事実として読むわけではありません。
風土記には、地方の見え方が残る
713年、朝廷は諸国に、地名の由来、土地の様子、産物、古老の伝承などを報告するよう命じました。これが風土記の編纂につながります。出雲国風土記には、記紀とは異なる地域の伝承も残されています。
現在伝わるのは、一部の国の本文や断片、他の本に引用された逸文などです。私たちが読める資料が、当時つくられた資料のすべてではないことも覚えておきましょう。
万葉集は、約4500首のことばの集まり
万葉集は全20巻、4500余首の和歌を収めます。天皇や貴族だけでなく、東歌、防人歌など多様な歌を含み、恋、旅、死、貧しさ、宴などが題材になります。山上憶良・大伴旅人・大伴家持・山部赤人らを、歌の主題と結びつけると読みやすくなります。
大伴家持が残した759年の歌が、年代が分かる歌のうち最後にあたります。ただし、万葉集そのものの完成年が759年と確定しているわけではありません。編纂の過程や編者には不明な点があり、家持の関与が重視されています。
庶民の歌も、そのまま全員の声ではない
歌は当時の感情を知る貴重な手がかりですが、選ばれ、書き留められ、編集されて伝わったものです。防人歌も、兵役の制度を説明する条文と同じ種類の資料ではありません。文学として表現された声と、行政の記録を並べると理解が深まります。
751年成立の懐風藻は、現存する日本最古の漢詩集。和歌だけでなく漢詩も、当時の知識人の教養や外交・宴の文化を支えました。漢字を使いながら日本語の音を表す万葉仮名は、日本語の表記を考えるうえでも重要です。
| 成立・命令 | 書物 | 何を伝える? |
|---|---|---|
| 712年 | 古事記 | 神話・天皇の系譜や物語 |
| 720年 | 日本書紀 | 年代順に記す国家の歴史 |
| 713年に編纂命令 | 風土記 | 土地・産物・地名・地域の伝承 |
| 751年 | 懐風藻 | 漢詩と知識人の教養 |
| 8世紀後半に編纂、過程は不明 | 万葉集 | 多様な作者の和歌。最新の年次を持つ歌は759年 |
この章の要点
712古事記・720日本書紀・713風土記の命令・751懐風藻。万葉集の完成年は断定しない。
この章の出典 [32] [33] [34] [35] [36]
17 宝物も、荷札も、時代を語る。
美しい像と、使い終わって捨てられた木の札。価値の違うものに見えても、どちらも奈良時代への入口です。
天平文化は、仏教と国際交流が結ぶ文化
聖武朝を中心とする8世紀の文化は、天平文化と呼ばれます。仏教の信仰と造寺・造仏の事業、唐や半島を通じた交流を背景に、彫刻・建築・工芸・文学が展開しました。天平という元号の期間だけに、すべての作品をきっちり収める呼び方ではありません。
仏像には、粘土を使う塑造、布と漆などを使う乾漆造などの技法が用いられました。興福寺の阿修羅像を含む八部衆像は、734年に創建された西金堂に安置されたもの。脱活乾漆の技術や、残る造営記録から、造像の現場を知ることができます。
正倉院は、756年の献納から広がる記憶
756年、聖武太上天皇の死後、光明皇太后はゆかりの品々を東大寺の大仏に献納しました。これが正倉院宝物の重要な基礎となります。楽器、染織品、器、薬物、文房具などは、宮廷や仏教儀礼、当時の技術を伝えます。
西方に由来する意匠などが見られることから、国際的なつながりを感じられます。ただし「正倉院の宝物は全部、シルクロードを通って外国から来たもの」ではありません。国内でつくられた品も多く、伝わった材料・意匠・技術と、制作地の問題は分けて考えます。
正倉院文書には、働く人の記録もある
宝物だけでなく、写経所の帳簿や古い戸籍・計帳などを含む正倉院文書も、社会を知る重要な史料です。紙の再利用によって、別の文書の裏面に古い記録が残る場合もあります。美術品の華やかさとは違う角度から、制度や労働の実態が見えてきます。
出土木簡には、文書、荷札、物の整理用の札、習書などがあります。荷札に記された国郡名・人名・品目・数量は、地方と都が物資で結ばれていた証拠。文字だけでなく、形、材質、どこから出土したかも情報です。
和同開珎があっても、全部が現金払いではない
708年に和同開珎の鋳造が始まり、奈良時代には銭の使用が進められました。都や寺院の労働の対価などに銭が使われる一方、米や布などの現物も、支給・納税・交換の中で重要でした。貨幣が発行された年と、社会全体でお金が広く使われるようになる過程は別です。
また、和同開珎より前の富本銭などの存在もあるため、「日本で初めて作られた貨幣」と一言で片づけないようにします。モノと記録を合わせると、制度の理想と実際の暮らしの両方が見えてきます。
この章の要点
天平文化は国際性と国内の技術の結晶。宝物と日常の記録を組み合わせて読む。
この章の出典 [39] [40] [37] [38] [42] [7] [41] [44]
18 奈良から平安へ、課題も引き継がれる。
都が変わると、時代の名前も変わる。でも、人や制度や暮らしが、一夜で入れ替わるわけではありません。
光仁から桓武へ、国の運営を立て直す
770年に光仁天皇、781年に桓武天皇が即位します。戸籍や土地の把握、税収、地方行政、寺院と政治の関係、東北での軍事行動など、国家の課題は続いていました。奈良時代の政治を「僧の力が強くなりすぎた」の一つだけで説明すると、その幅が見えません。
桓武天皇は784年に長岡京へ、794年に平安京へ都を移しました。新しい政治拠点をつくる意図に加えて、交通や地理的条件、政局など複数の背景を考える必要があります。平城京から離れた後も、奈良の寺院や地域の人々の暮らしは続きます。
長岡京でも、造営と政治の緊張は続く
長岡京の造営を担ったのは、式家の藤原種継らでした。784年の遷都の翌年、785年に種継が暗殺され、桓武天皇の弟で皇太子の早良親王も事件への関与を疑われて幽閉・廃太子となります。早良親王は淡路への移送中に亡くなりました。
新しい都へ移れば、すべての対立が片づくわけではありません。長岡京での10年間にも造営や政治上の課題があり、その後794年に平安京へ移ります。事件への関与を疑われたことと、有罪が確実に裏づけられることを分け、遷都の理由も一つの事件だけに還元しないように読みます。
藤原氏の物語も、ここで完結しない
不比等の制度づくり、四兄弟の台頭と急死、南家の仲麻呂の政権、北家・式家などの活動。その先に、平安時代の藤原氏の展開があります。奈良時代の時点で、後の北家の優勢を当然の結末として決めつけず、各場面の選択と偶然を見ておきましょう。
土地の私有の広がり、租税の仕組みの変化、国家と地域の関係、仏教や文字の文化も、形を変えて続きます。時代の区切りは便利な目印ですが、歴史の流れを切断する線ではありません。
最後に、自分の言葉でつなげる
奈良時代を「国を動かすしくみ」「権力をめぐる人々」「暮らしと文化」の三つの線でもう一度眺めてみましょう。税で集まる物と人が都や寺を支え、疫病が政治と生産を揺さぶり、海を越える知識が制度と美術を変える。このつながりが見えれば、年号や人名は物語の中の目印になります。
資料編には、年表・人物一覧・用語集・混同しやすい点の比較と出典をまとめました。本文と行き来しながら、分かったつもりの場所を読み返してみてください。
この章の要点
784年に長岡京、794年に平安京へ。奈良時代の挑戦と課題は、次の時代にも続く。
この章の出典 [2] [1] [17] [13] [48] [47]
年表で、つなぎなおす。
出来事の順序と前後関係を確かめましょう。各項目から、対応する本文と出典へ戻れます。
669年 鎌足に藤原の姓
藤原氏の起点。奈良時代より前の出来事。
701年 大宝律令
天皇を中心とする国家の制度が整えられる。
708年 和同開珎の鋳造
奈良時代に続く貨幣政策の出発点の一つ。
710年 平城京へ遷都
元明天皇が藤原京から都を移す。
712年 古事記が成立/出羽国を置く
国の歴史を記す動きと、地方支配の拡大。
713年 風土記の編纂命令
諸国の土地・産物・伝承などを調べる。
715年 元正天皇が即位
元明天皇から譲位される。
717年 吉備真備・阿倍仲麻呂・玄昉が入唐
学びの成果は、異なる形で政治や文化につながる。
718年 養老律令の編纂が完成
実際の施行は757年。
720年 日本書紀が完成/不比等が死去
国史編纂と、政治を担う世代の変化。
723年 三世一身法
開墾地を期限付きで保有させる。
724年 聖武天皇が即位/多賀城創建
都の政治と、東北の行政・軍事拠点の整備。
729年 長屋王の変/光明子が皇后に
皇族の有力者が倒れ、藤原四兄弟が台頭。
735年 天然痘が九州で流行/吉備真備・玄昉帰国
病と新たな知識の流入が、後の政局にも関わる。
737年 天然痘流行、藤原四兄弟が死去
藤原氏が後退し、橘諸兄のもとで政局が動く。
740年 藤原広嗣の乱/恭仁京へ
乱は鎮圧され、聖武天皇は都を移す。
741年 国分寺建立の詔
各国に国分寺・国分尼寺の建立を命じる。
743年 墾田永年私財法/大仏造立の詔
耕地の開発と、仏教の大事業が同じ年に進む。
744年 難波京へ遷都
短期間に都が移り変わる。
745年 紫香楽宮へ、そして平城京へ
平城に戻って東大寺の大仏造立が進む。
749年 孝謙天皇が即位/大仏の仏身鋳造が終わる
聖武天皇から娘へ譲位。
751年 懐風藻が成立
現存する日本最古の漢詩集。
752年 大仏開眼供養
東大寺で国際的な法会が行われる。
753年 鑑真が日本に到着
度重なる渡航の失敗を経て来日。
754年 鑑真が奈良へ入り授戒
来日年と、奈良での活動開始を分ける。
756年 聖武太上天皇が死去/宝物を献納
光明皇太后が東大寺の大仏にゆかりの品々を納める。
757年 橘奈良麻呂の乱/養老律令施行
反仲麻呂の計画が発覚。法の完成から39年後に施行。
758年 淳仁天皇が即位
孝謙から譲位。仲麻呂は恵美押勝の名を得る。
759年 唐招提寺創建/万葉集の最新年次の歌
万葉集全体の完成年を示すわけではない。
760年 光明皇太后が死去
仲麻呂は大きな後ろ盾を失う。
764年 藤原仲麻呂の乱/称徳天皇が即位
仲麻呂敗死、淳仁廃位。孝謙が重祚する。
769年 宇佐八幡神託事件
和気清麻呂が神託を確認し、報告後に流罪となる。
770年 称徳天皇が死去/光仁天皇が即位
道鏡が退けられ、皇統の重心も変わる。
781年 桓武天皇が即位
国家運営の課題を引き継ぐ。
784年 長岡京へ遷都
平城京が首都である時期の終わり。
785年 藤原種継暗殺・早良親王の廃太子
長岡京造営の責任者が殺害され、皇太子も事件への関与を疑われる。
794年 平安京へ遷都
本教材で採る奈良時代の終点。
人物から、読み返す。
読み方・役割・つながりを整理します。詳しい説明と出典は、対応する本文で確認できます。
藤原鎌足
ふじわらのかまたり / 藤原氏の祖
飛鳥時代に活動。669年に藤原の姓を得る。不比等の父。
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藤原不比等
ふじわらのふひと / 制度と親族関係の基盤
律令編纂に関わる。四兄弟・宮子・光明子の父。720年死去。
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藤原武智麻呂
ふじわらのむちまろ / 南家の祖
不比等の子。仲麻呂の父。737年に死去。
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藤原房前
ふじわらのふささき / 北家の祖
不比等の子。後の北家につながるが、摂関政治は主に平安時代の展開。
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藤原宇合
ふじわらのうまかい / 式家の祖
不比等の子。広嗣の父。737年に死去。
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藤原麻呂
ふじわらのまろ / 京家の祖
不比等の子。四兄弟の一人。737年に死去。
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藤原宮子
ふじわらのみやこ / 聖武天皇の母
不比等の娘。文武天皇との間に聖武天皇をもうける。
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県犬養三千代
あがたのいぬかいのみちよ / 宮廷を結ぶ人物
橘三千代ともいう。橘諸兄と光明皇后の母。
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元明天皇
げんめいてんのう / 平城遷都の天皇
710年の遷都。古事記の編纂・風土記の命令の時期を担う。
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元正天皇
げんしょうてんのう / 元明から聖武への時期
715〜724年在位。養老律令の編纂や日本書紀の完成はこの時期。
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聖武天皇
しょうむてんのう / 危機と仏教事業
国分寺・大仏の造立を進める。都を移した時期にも注目。
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光明皇后
こうみょうこうごう / 信仰・救済・政治
不比等と三千代の娘。聖武の皇后、孝謙/称徳の母。仲麻呂の後ろ盾。
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長屋王
ながやおう / 皇族の有力者
天武の孫。729年の事件で自死。邸宅跡の木簡も重要。
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橘諸兄
たちばなのもろえ / 四兄弟の死後に台頭
光明皇后の異父兄。吉備真備・玄昉らを重用。
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藤原広嗣
ふじわらのひろつぐ / 740年の挙兵
式家の宇合の子。大宰府で挙兵し、鎮圧された。
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吉備真備
きびのまきび / 唐の学びを政治へ
717年に入唐、735年帰国。後に仲麻呂の乱の鎮圧などに関わる。
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玄昉
げんぼう / 唐で学んだ僧
吉備真備とともに帰国後、橘諸兄の政権で重用される。
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阿倍仲麻呂
あべのなかまろ / 唐で生きた官人
717年に渡唐。唐で官人として活動し、日本に帰国できなかった。
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行基
ぎょうき / 民衆と仏教事業
社会事業や布教に携わり、大仏造立にも協力。
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良弁
ろうべん / 東大寺の造営
聖武・行基・菩提僊那とともに東大寺の四聖に数えられる。
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菩提僊那
ぼだいせんな / 開眼供養の導師
インド出身の僧。752年、大仏の開眼を担う。
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鑑真
がんじん / 戒律を伝える
753年来日、754年に奈良で授戒。759年、唐招提寺を開く。
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藤原仲麻呂
ふじわらのなかまろ / 恵美押勝と同一人物
武智麻呂の子。政治の中心に進むが、764年の乱で敗死。
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橘奈良麻呂
たちばなのならまろ / 757年の計画
諸兄の子。仲麻呂に対抗する計画が発覚し、獄中で亡くなる。
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孝謙・称徳天皇
こうけん・しょうとくてんのう / 同じ人物、二度の即位
聖武と光明の娘。749年に孝謙、764年に称徳として即位。
参照 本文へ
淳仁天皇
じゅんにんてんのう / 仲麻呂が支える天皇
大炊王。758年に即位し、764年に廃位された。
参照 本文へ
道鏡
どうきょう / 称徳の信任を得た僧
法王の地位へ進む。770年に称徳が亡くなると退けられる。
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和気清麻呂
わけのきよまろ / 神託を確かめる使者
769年、宇佐八幡へ派遣。道鏡の即位を否定する趣旨の報告をする。
参照 本文へ
光仁天皇
こうにんてんのう / 天智系の皇統へ
770年に即位。桓武天皇の父。
参照 本文へ
桓武天皇
かんむてんのう / 長岡・平安への遷都
781年即位、784年長岡京、794年平安京へ。
参照 本文へ
太安万侶・稗田阿礼
おおのやすまろ・ひえだのあれ / 古事記の編纂
古事記の序文が、筆録と誦習の役割を伝える。阿礼の詳細は不明。
参照 本文へ
舎人親王
とねりしんのう / 日本書紀の編纂
720年に完成した日本書紀の編纂を担った中心人物。
参照 本文へ
大伴家持
おおとものやかもち / 歌と編纂の手がかり
万葉集の編纂への関与が重視される。759年の歌が最新の年次を持つ。
参照 本文へ
山上憶良
やまのうえのおくら / 暮らしにも目を向ける歌
貧しさや家族などを詠んだ歌で知られる。歌と行政の史料を読み比べたい。
参照 本文へ
藤原永手
ふじわらのながて / 北家の政治家
房前の子。称徳朝で左大臣となり、770年には白壁王(光仁)の擁立に関わる。
参照 本文へ
藤原良継
ふじわらのよしつぐ / 式家の政治家
宇合の子。仲麻呂と対立した人物の一人で、後に内臣となる。種継の父。
参照 本文へ
藤原百川
ふじわらのももかわ / 光仁・桓武への時期
宇合の子。奈良時代後半の政局と皇位継承に関わる式家の人物。
参照 本文へ
藤原種継
ふじわらのたねつぐ / 長岡京の造営を担う
良継の子で式家。桓武朝に造営を進めたが、785年に暗殺された。
参照 本文へ
藤原浜成
ふじわらのはまなり / 京家の文人・政治家
麻呂の子。歌学と奈良時代後半の政治の両面に関わった。
参照 本文へ
用語を、意味でつかむ。
言葉の意味を確かめ、仕組みを説明する本文へ戻れます。
律令
りつりょう
刑罰の律と行政などの令を中心とする法体系。
参照 本文へ
大宝律令
たいほうりつりょう
701年に成立した国家の基本法。
参照 本文へ
養老律令
ようろうりつりょう
718年に編纂が完成し、757年に施行された律令。
参照 本文へ
二官八省
にかんはっしょう
神祇官・太政官と、太政官の下に置かれた八つの省。
参照 本文へ
国司・郡司
こくし・ぐんじ
国司は中央から派遣、郡司は地域の有力者から任命される地方官。
参照 本文へ
位階・官職
いかい・かんしょく
位階は序列、官職は担当する役職。
参照 本文へ
蔭位の制
おんいのせい
高位者の子孫が一定の位階を得やすくなる制度。
参照 本文へ
戸籍
こせき
原則6年ごとにつくる住民・身分などの基本台帳。
参照 本文へ
計帳
けいちょう
課税対象などを把握するために毎年つくる帳簿。
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班田収授
はんでんしゅうじゅ
口分田を配分し、回収・再配分するしくみ。
参照 本文へ
口分田
くぶんでん
班田の制度で人々に与えられる田。売買は原則禁止。
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条里地割
じょうりちわり
耕地の位置や面積を整理する区画。都の条坊とは区別。
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租
そ
田の面積に応じて稲で納める税。
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庸
よう
都での歳役に代えて布などを納める税。
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調
ちょう
主に成人男子が繊維製品・地域の産物などで納める税。
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雑徭
ぞうよう
地方での土木工事などの労役。
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運脚
うんきゃく
庸・調などを都へ運ぶ人・負担。
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出挙
すいこ
稲などを貸し付け、利息を付けて返させるしくみ。
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衛士・防人
えじ・さきもり
衛士は都の警備、防人は北部九州などの防衛を担った。
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浮浪・逃亡
ふろう・とうぼう
登録地を離れた人々をめぐる区分。背景に生活・負担の問題がある。
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三世一身法
さんぜいっしんのほう
723年。新たな灌漑は三世代、既存施設の利用は一代の墾田保有。
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墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう
743年。許可・面積制限のもと、新しい墾田の永年保有を認めた法。
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初期荘園
しょきしょうえん
貴族や寺院などの開墾・土地経営によって形成された荘園の初期の形。
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平城京・平城宮
へいじょうきょう・へいじょうきゅう
京は都市全体、宮はその中の政治・儀式・天皇の生活の中枢。
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条坊制
じょうぼうせい
大路などで都を碁盤目状に区画する都市のしくみ。
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朱雀大路
すざくおおじ
朱雀門から南に延び、左京・右京を分ける都の大路。
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藤原四家
ふじわらしけ
武智麻呂の南家・房前の北家・宇合の式家・麻呂の京家。
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外戚
がいせき
天皇の母や后妃の側の親族。政治的影響力を持つことがあった。
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長屋王の変
ながやおうのへん
729年。長屋王が反逆の疑いをかけられ、自死に追い込まれた事件。
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天然痘
てんねんとう
735〜737年などに大流行し、政治・生産にも深刻な影響を与えた感染症。
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藤原広嗣の乱
ふじわらのひろつぐのらん
740年。宇合の子・広嗣が九州で挙兵し、鎮圧された。
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恭仁京・難波京・紫香楽宮
くにきょう・なにわきょう・しがらきのみや
聖武天皇が平城京を離れて移った都・宮。
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鎮護国家
ちんごこっか
仏教の力によって国の安定を願う考え。
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国分寺・国分尼寺
こくぶんじ・こくぶんにじ
741年の詔で、各国に建立を命じられた僧寺と尼寺。
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開眼供養
かいげんくよう
仏像に目を入れ、供養する法会。東大寺の大仏では752年。
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南都六宗
なんとろくしゅう
三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の学派。
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授戒
じゅかい
仏教者として守る戒律を授けること。鑑真の活動が重要。
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恵美押勝
えみのおしかつ
藤原仲麻呂に与えられた名。別人ではない。
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橘奈良麻呂の乱
たちばなのならまろのらん
757年。仲麻呂に対抗する計画が発覚した事件。
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藤原仲麻呂の乱
ふじわらのなかまろのらん
764年。恵美押勝の乱ともいう。仲麻呂が敗死した。
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重祚
ちょうそ
退位した天皇が再び即位すること。孝謙は称徳として即位。
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宇佐八幡神託事件
うさはちまんしんたくじけん
769年。道鏡の即位をめぐる神託と、和気清麻呂の報告の事件。
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遣唐使
けんとうし
唐へ派遣された使節。留学生・学問僧による知識の摂取も担った。
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渤海
ぼっかい
中国東北部などにあった国。727年に最初の使節が来日。
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大宰府
だざいふ
北部九州で外交・防衛などを担った役所。
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多賀城
たがじょう
724年に創建。陸奥国府などが置かれた東北の政治・軍事拠点。
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蝦夷・隼人
えみし・はやと
朝廷が地域の人々を呼び分けた歴史用語。現代の民族区分と直結させない。
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良民・賤民
りょうみん・せんみん
律令上の身分区分。人の価値を表す呼称ではない。
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悲田院・施薬院
ひでんいん・せやくいん
貧しい人の救済や病人への施薬などに関わる施設。
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天平文化
てんぴょうぶんか
仏教と国際交流を背景に展開した、8世紀を中心とする文化。
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乾漆造・塑造
かんしつぞう・そぞう
漆と布などを用いる造像技法/粘土を用いる造像技法。
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正倉院
しょうそういん
東大寺に伝わった宝物・文書などを今に伝える宝庫。
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木簡
もっかん
文字を記した木の札。文書・荷札・整理用の札など用途は多様。
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和同開珎
わどうかいちん
708年に鋳造が始まった貨幣。日本最古と単純には言えない。
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記紀
きき
古事記と日本書紀を合わせた呼び方。
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風土記
ふどき
朝廷の命令に基づく、地方の地理・産物・伝承などの記録。
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万葉仮名
まんようがな
漢字の音などを利用して日本語を表記する方法。
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東歌・防人歌
あずまうた・さきもりうた
東国の歌/防人やその家族に関わる歌。編集されて伝わった文学でもある。
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懐風藻
かいふうそう
751年に成立した、現存する日本最古の漢詩集。
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長岡京・平安京
ながおかきょう・へいあんきょう
桓武天皇が784年、794年にそれぞれ遷都した都。
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似ているところこそ、丁寧に。
名前・年号・制度の意味。混同しやすいところを読み比べます。
奈良時代の終わり
本教材は710〜794年。平城京中心の時期は784年までとする区分もある。
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養老律令の年
718年は編纂の完成、757年は施行。
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都の区画
都市は条坊、農村の土地の区画は条里。京と宮も区別。
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開墾の法
723年は三世一身法、743年は墾田永年私財法。743年に全国すべてが私有・免税になったわけではない。
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藤原氏の世代と家
鎌足は飛鳥時代。不比等の四子が四家の祖。仲麻呂は南家、広嗣は式家。
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三つの政変
729年は長屋王、740年は広嗣、764年は仲麻呂の事件。737年の四兄弟の死は疫病。
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似た名前の「なかまろ」
757年の橘奈良麻呂と、764年の藤原仲麻呂は別人。阿倍仲麻呂も別の人物。
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孝謙と称徳
同じ人物の二度の即位。称徳と、飛鳥時代の聖徳太子も別。
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鑑真の来日年
753年は日本への到着、754年は奈良入り・授戒。
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大仏と正倉院の年
743年の造立の詔、752年の開眼、756年の聖武没後の献納。
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万葉集の759年
最新の年次を持つ歌の年。歌集全体の完成年が確定しているのではない。
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創建時と現存建物
奈良時代創建の寺でも、現存する堂宇が奈良時代の建物とは限らない。
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根拠をたどる、学びへ。
本文・図表は、次の資料を参照して独自に構成しました。リンク先の文章や画像を転載した教材ではありません。
この教材と、出典の読み方
中学〜高校の日本史の重要な出来事を、背景・政治・社会・文化のつながりで学ぶ概説です。すべての人物や研究論点を網羅するものではありません。博物館・研究所・自治体・寺院などの公式解説と研究資料を中心に、原典そのものと現代の解説を区別して参照しました。伝承や顕彰の言葉を、そのまま確定した史実として扱わないようにしています。
参照確認日:2026-10-18 編集:がっけんぽスタディ。外部資料は別タブで開きます。PDFは資料名などに明記。
[1] 奈良国立博物館
時代区分。710〜794年とする説明。
[2] 国営平城宮跡歴史公園
都と政治・仏教に関する年表。平城京中心の時代を710〜784年とする説明も確認。
[3] 国営平城宮跡歴史公園
都の区画・規模と、平城京/平城宮の違い。
[4] 奈良文化財研究所
都の人口推計と生活空間。
[5] 奈良国立博物館
律と令、律令国家の基本。
[6] 奈良国立博物館
編纂と757年の施行。
[7] 奈良文化財研究所・山本祥隆
戸籍は6年ごと、計帳は毎年。出土した計帳軸。
[8] 鳥取市教育委員会
口分田の配分・返還と条里地割。制度の規定と実際を区別。
[9] 富田林市
土地税としての租、庸・調・労役。
[10] 奈良国立博物館
都での歳役に代える納付物。
[11] 奈良国立博物館
繊維製品や地域の産物を納める税。
[12] 鹿児島市
運脚の自費輸送・免除規定など。
[13] 奈良県立万葉文化館
743年の法、開墾許可と面積制限。
[14] 奈良県立万葉文化館
不比等の家族関係・官歴・律令編纂。
[15] 奈良県立万葉文化館
北家の祖・737年の死去。
[16] 奈良県立万葉文化館
式家の祖・広嗣との関係。
[17] 奈良県
四兄弟・橘諸兄・吉備真備・藤原仲麻呂などの確認。
[18] 奈良市
木簡で判明した邸宅と729年の事件。
[19] 奈良県立万葉文化館
事件とその後の政局。
[20] 奈良文化財研究所
735〜737年の天然痘流行と祈り。
[21] 東大寺
国分寺・大仏造立・開眼供養と関係者。
[22] 東大寺
創建から焼失・再建まで。
[23] 奈良県立万葉文化館
不比等・県犬養三千代との親子関係。
[24] 奈良県立万葉文化館
武智麻呂の子・恵美押勝の名と官歴。
[25] 奈良県立万葉文化館
757年の計画と弾圧。
[26] 奈良県立万葉文化館
764年の対立と藤原仲麻呂の敗死。
[27] 和気町
769年の宇佐八幡神託事件。顕彰の視点も含むため、物語的な人物評価と事件の骨格を区別。
[28] 唐招提寺
渡航の失敗と753年の来日。
[29] 唐招提寺
759年の創建。
[30] 多賀城市
724年の多賀城創建と、陸奥・出羽の統治。
[31] 多賀城市
出羽国・多賀城・727年の渤海使など。
[32] 奈良県
古事記・日本書紀・万葉集の成立・表記・編者。
[33] 奈良県立万葉文化館
元明天皇・太安万侶・稗田阿礼と712年の成立。
[34] 島根県
713年の地誌編纂命令と地方の記録。
[35] 奈良県立万葉文化館
全20巻・4500余首の歌と、多様な作者・主題。
[36] 文化庁・愛媛県歴史文化博物館
751年成立の漢詩集。掲載される所蔵本自体は後世の刊本。
[37] 宮内庁
756年の光明皇后による献納と宝物。
[38] 奈良国立博物館
宝物・文書が伝える国際交流と国内の生活。
[39] 興福寺
734年の西金堂と阿修羅像、脱活乾漆の技法。
[40] 興福寺
光明皇后・橘三千代と734年の造立。
[41] 造幣局
708年の和同開珎と皇朝十二銭。
[42] 奈良文化財研究所
文書・付札・荷札など、木簡の用途。
[43] 奈良文化財研究所
出土資料・文献から考える食材と調理。
[44] 奈良文化財研究所・馬場基
労働と食料、生活の声を伝える木簡。
[45] 奈良県
大宝・養老律令、三世一身法などの基本年表。
[46] 奈良県立万葉文化館
房前の子。称徳朝・光仁擁立に関わる官歴。
[47] 木本好信・甲子園短期大学紀要
27巻1〜19頁。藤原四家の系譜と奈良時代後半の政局。論文中の政治的意図の解釈を、確定した事実と区別。リンク先からPDF閲覧可。
[48] 長岡京市
784年の造営・遷都、785年の種継暗殺と早良親王の事件。
[49] 鹿児島県・黎明館
720〜721年の南九州での戦いを、地域の抵抗の視点から説明。
読み終えたら、時代がつながる。
本文を読み、図を眺め、わからない言葉に戻る。読み方は一つではありません。ほかの時代の教科書も開いて、前後のつながりを確かめてみましょう。
