飛鳥時代
592–710 / がっけんぽスタディ
01 小さな盆地から、国のかたちが変わる
飛鳥時代は、一人の英雄が一気に国をつくった時代ではありません。王家・有力氏族・海を渡る人々の協力と対立が、百年以上かけて新しい仕組みを生みました。
どこから、どこまでが飛鳥時代?
この本は、推古天皇が即位した592年から、平城京へ都を移す710年までを中心に読みます。飛鳥に宮が集まった592〜694年を重視する区切り方や、美術史のように仏教公伝のころから考える区切り方もあります。時代の境目は、学ぶ目的によって少し違います。
いまの奈良県明日香村周辺には、宮・寺・工房・水の施設が近い距離にありました。ただし「飛鳥」という一つの都に同じ宮がずっと続いたわけではありません。天皇の代替わりや政治の変化とともに、宮の場所も移ります。
三つの線を重ねて読む
一本目は政治の線。王家と蘇我氏などの関係から、天皇を中心とする官僚制度へ向かいます。二本目は信仰と文化の線。仏教は、新しい祈りであると同時に、建築・文字・学問・技術を伴って広がりました。
三本目は海の向こうの線です。隋・唐と朝鮮半島の国々の動きを抜きに、飛鳥の改革や戦争は説明できません。「国内の人物」と「国外の出来事」を同じ年表に置くと、制度が必要とされた理由が見えてきます。
この章の要点
飛鳥時代は、政治・仏教・東アジアの交流を重ねて読むとつながる。
02 蘇我氏は、なぜ力を持ったのか
稲目、馬子、蝦夷、入鹿。蘇我氏の名前は「倒される側」として覚えがちですが、まずは王権を支えた働きから見てみましょう。
大王だけでは国を動かせない
当時の政治では、大王家と有力な氏族が、人々・土地・技術の集団を分担して支えていました。氏は血縁や伝承で結ばれた集団、姓は王権から認められた地位を表す称号です。現在の名字と同じ意味で読まないことが大切です。
蘇我氏は、財政・外交・渡来系の技術者たちとの関係などを背景に勢力を伸ばしました。王家との婚姻も重要です。王の母方の親族になることは、後の藤原氏にもつながる政治の力でした。
四代を一人にまとめない
稲目は仏教受容をめぐる時期、馬子は飛鳥寺や推古朝の政治、蝦夷と入鹿はその後の政争と結びつきます。四人は同時に同じ行動をした人ではありません。「蘇我氏がした」で終えず、世代と相手を確かめます。
587年には、蘇我馬子側と物部守屋側の争いで守屋が敗れました。仏教を受け入れるかどうかは重要な争点でしたが、王位継承や有力者同士の主導権争いも重なっています。単純な宗教戦争にすると、政治のつながりが見えなくなります。
この章の要点
蘇我氏の力は、王家との婚姻・行政・海外の知識との結びつきから考える。
03 仏像といっしょに、技術も海を渡った
新しい祈りの道具をつくるには、新しい技術が要ります。仏教の伝来は、信仰だけに収まらない社会の変化でした。
538年と552年、どちらを覚える?
百済の聖明王が仏像や経典を贈ったという仏教の公伝には、538年説と552年説があります。よりどころにする史料が異なるためです。538年を採る説明が多くても、552年を単なる誤りとして消すことはできません。
公伝は、王権に公的に伝えられた出来事を指します。それ以前にも、渡来した人々が仏教を知り、信仰していた可能性があります。ある年の贈り物だけで、日本列島のすべての人の信仰が入れ替わったわけではありません。
寺は、総合技術の現場
飛鳥寺は、蘇我馬子が造営を進めた本格的な寺院です。588年に工事が始まり、百済から来た僧・寺工・瓦工などが関わりました。瓦屋根、大きな仏像、色を使う建築は、資材と人手をまとめる仕事でもありました。
仏教を保護すると、権威や外交関係を示すことにもなります。一方で、祈りが病気や不安への答えとして求められた面も見落とせません。寺を政治の道具だけと見るのでも、信仰だけと見るのでも、当時の姿は狭くなります。
| 言葉 | 意味 | 注意したい点 |
|---|---|---|
| 仏教公伝 | 王権への公的な伝来 | 538年説・552年説がある |
| 仏教の受容 | 信仰や制度が社会に広がる過程 | 全国で同時には進まない |
| 寺院造営 | 建築・仏像・儀礼を整える事業 | 渡来した技術者や多くの労働を伴う |
この章の要点
仏教公伝の年代には異説があり、寺づくりは国際的な技術交流でもあった。
04 推古天皇と厩戸王を、同じ画面で見る
「聖徳太子が全部つくった」と一行で覚える前に、天皇・王族・蘇我馬子が一緒にいた政治の場を見てみましょう。
推古朝の複数の担い手
592年に推古天皇が即位します。厩戸王は、後に聖徳太子の名で広く知られる王族です。『日本書紀』は、太子が政治を補佐したと伝えますが、当時の具体的な権限や分担には研究上の議論があります。
推古天皇のもとには蘇我馬子もいました。宮廷の方針や外交は、複数の担い手によって進みます。太子への信仰が後の時代に大きく広がったことと、同時代の政治を再構成することは、分けて考えます。
冠位と憲法が目指したもの
603年の冠位十二階、604年の十七条憲法は、『日本書紀』に記された推古朝の改革です。冠位は個人の序列づけ、十七条憲法は官人の行動や政治のあり方を示すものとして理解します。
十七条憲法を、国民の権利や国家権力の制限を定める現代の憲法と、そのまま同じものにしてはいけません。仏教や儒教の言葉を用い、争いを抑え、王のもとで仕事を進める規範として読んでみると、時代の課題が見えます。
この章の要点
推古朝は複数の人々が動かした政治であり、後世の太子像と史料の記述を区別する。
05 海の向こうで、国のあり方を学ぶ
外交は、手紙を届けて終わりではありません。海を渡った人々が持ち帰った知識は、何十年も後の制度づくりを支えます。
隋に使者を送る
中国側の史料には600年の倭の使節が記され、607年には小野妹子を隋へ送ったことが知られます。608年には隋の使者・裴世清が来訪しました。相手の記録と『日本書紀』では、見え方や表現が一致しないこともあります。
よく知られる国書の表現だけから、完全な対等外交が実現したと結論づけることはできません。自国の立場をどう示すか、中国の王朝が周辺国をどう位置づけるか。そのせめぎ合いが外交です。
留学生の知識は、あとで効いてくる
隋が滅びて唐が成立すると、630年に最初の遣唐使が送られます。留学生や学問僧は、仏教だけでなく、法律・暦・文書行政などの知識にも触れました。高向玄理や僧旻らの活動は、帰国後の政治に結びつきます。
航海には危険があり、国際情勢によって往来の条件も変わります。朝鮮半島の国々を通じた人の移動も大切でした。「中国から直輸入」と一方向に考えず、複数の地域を結ぶ交流として捉えましょう。
この章の要点
外交使節と留学生が持ち帰った知識は、長い時間をかけて国家の制度に生かされた。
06 645年、宮廷で何が変わったのか
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒す。大きな事件ですが、この一日だけで律令国家が完成したわけではありません。
政変の当事者を整理する
645年、皇極天皇のもとで、蘇我入鹿が宮中で殺害されました。中心となったのは中大兄皇子と中臣鎌足らです。続いて入鹿の父・蝦夷も死に、蘇我本宗家の政治的な力が崩れます。干支にちなみ、乙巳の変と呼びます。
中臣鎌足は、669年に藤原の姓を与えられる人物です。最初から「藤原氏の完成した一族」が政変を起こしたと考えず、この事件の中臣鎌足と、後の藤原不比等・四家をつなげて整理します。
倒された氏族と、残る人々
皇極天皇は退位し、弟の孝徳天皇が即位します。都は難波へ移され、新しい政治が進められました。王家の内部の関係や、新政権を支える氏族の組み合わせも変わります。
ただし、蘇我氏の人々全員がこの時にいなくなったわけではありません。失脚した中心の家と、ほかの系統や婚姻関係は区別します。「蘇我氏滅亡」という短い言葉だけでは、その後に続く人のつながりを見失います。
この章の要点
乙巳の変は645年の政変。続く改革の長い過程全体とは区別する。
07 大化の改新は、一枚の命令で完成した?
人を数え、土地を調べ、役所を置く。改革の中身を具体的な仕事に戻すと、なぜ時間がかかったのかがわかります。
646年の詔と、後の記録
『日本書紀』は646年に改新の詔が出されたと記します。公地公民、地方行政、戸籍や田地、税の仕組みへ向かう方針が示されます。ただし『日本書紀』は720年に完成した史書です。後の制度の用語や考え方が反映された可能性も検討されています。
そのため、645年の政変、646年の詔として伝えられる方針、七世紀後半から八世紀初めの制度化を分けて見ます。出来事がなかったという意味ではなく、史料に書かれた言葉を、そのまま一日で実現した制度と同一視しないということです。
公地公民を、実務から考える
氏族の支配していた人や土地を、王権が把握する方向へ進んだことは大きな変化でした。けれども「私有地が翌日すべて消えた」と想像すると実態から離れます。王権は、地域の有力者や在来のつながりを使いながら支配を組み立てました。
地方では、七世紀の木簡に評の字が現れ、大宝律令の施行に伴って郡の表記へ変わります。国・郡・里という完成形だけを過去に戻して当てはめず、書き方や組織の変化を追うことが、発掘資料を読む面白さです。
| 時期 | 注目すること | 読み分け |
|---|---|---|
| 645年 | 乙巳の変と政権の交代 | 具体的な宮廷の政変 |
| 646年の記述 | 改新の詔として伝わる方針 | 720年成立の『日本書紀』が伝える |
| 七世紀後半〜701年 | 戸籍・官制・法の整備 | 段階的に制度化、地域での運用も必要 |
この章の要点
改新は政変と制度づくりの過程。史書の記述・改革の方針・実際の運用を分けて読む。
08 同じ天皇が、二度政治の中心に立つ
大きな溝、石の施設、時を知らせる仕組み。飛鳥の遺跡からは、宮廷が自然と人手を動かした姿も見えてきます。
皇極天皇と斉明天皇は、同じ人
皇極天皇は642年に即位し、乙巳の変の後に退位します。孝徳天皇の死後、655年に再び即位した時の名が斉明天皇です。同じ人物が二度即位することを重祚といいます。奈良時代の孝謙・称徳も同じ仕組みです。
斉明朝には、宮殿や水の施設など大規模な造営が進みました。『日本書紀』には土木事業への批判も記されます。遺構が示す工事の規模と、史書が選んで伝える評価を、照らし合わせて考える必要があります。
時間も、水も、政治の資源
中大兄皇子の漏刻は660年の記事に現れ、671年には時を知らせる記事があります。水の流れを利用する時計です。暦や時間を管理することは、儀式や人々の仕事をそろえる王権の営みでもありました。
朝鮮半島では660年に百済が滅び、復興を支援する動きが起こります。斉明天皇は西へ向かい、661年に九州で亡くなりました。663年の白村江の戦いより前の死なので、二つを同じ年の出来事にまとめないようにします。
この章の要点
皇極と斉明は同一人物。土木・時間の管理と海外情勢を同じ時代の動きとして見る。
09 白村江の敗戦が、国内の課題を変えた
663年の敗戦は、遠い海の話では済みませんでした。防衛・外交・人々の移動が、日本列島の政治に直接つながります。
誰と誰が戦ったのか
660年に百済は唐・新羅によって滅ぼされます。その後の百済復興勢力を、倭が支援しました。663年の白村江の戦いでは、倭・百済復興側が唐・新羅側に敗れます。「日本対中国」だけでは、朝鮮半島の人々の立場を消してしまいます。
敗戦後、倭の朝廷は攻撃を受ける可能性を強く意識します。北部九州などに防衛拠点を整え、水城や山城、見張りや防人の仕組みを組み合わせました。城を築くことには、設計の知識と、地域の大きな労働力が必要でした。
海を渡ってきた人々
百済などから来た人々は、政治・学問・技術に関わりました。移動には、戦争や国の滅亡という切迫した事情もありました。渡来人を「技術を持ってきた便利な人」とだけ扱わず、生活の場所を変えた人々として捉えましょう。
敗戦後も唐や新羅との関係は変化し続けます。防衛を強めたことと、交流が完全に断たれたことは同じではありません。国内制度の整備も、外の危機だけで突然始まったのではなく、それ以前の改革に重なって進みました。
この章の要点
白村江は百済復興をめぐる国際戦争。敗戦は防衛と国家の整備を促した。
10 戸籍をつくると、国は何を知るのか
「人がどこに何人いるか」を把握できれば、税や兵役を計画できます。でも、その記録を全国でつくるのは大仕事です。
中大兄皇子から天智天皇へ
中大兄皇子は、白村江の前後にも政治の中心にいました。667年に近江大津宮へ移り、668年に天智天皇として即位します。宮を移したこと、即位したこと、制度を整えたことを、それぞれの年に置いて整理しましょう。
大津は琵琶湖の交通とも結びつく場所です。都を動かす理由を、防衛のためだけに決めつけることはできません。地理、王家の関係、物資の運搬など、いくつもの条件を考える必要があります。
670年の庚午年籍
670年には庚午年籍がつくられました。人々の氏姓や所属を確かめる基礎となる重要な戸籍です。ただし、原本が全国分そろって現在に残っているわけではありません。後の史料の記述などから、その位置づけを考えます。
戸籍に載ることは、保護だけでなく負担にもつながりました。税・労役・軍事の対象を把握することが、国家の仕事になります。天智天皇は671年に死去し、次の王位をめぐる関係は、翌年の大きな内戦へ向かいました。
この章の要点
庚午年籍は670年。天智朝の人の把握は、後の戸籍・税制の整備につながる。
11 672年、道と地域が勝敗を分けた
王位継承の争いは、宮廷の人間関係だけでは決まりません。誰が交通路を押さえ、地域の人々を味方につけたのかが重要でした。
- 近江側大友皇子
天智天皇の子。672年の壬申の乱で敗れる。
- 勝利した側大海人皇子 → 天武天皇
天智天皇の弟。673年に即位。
- 婚姻と継承天武天皇 + 持統天皇
持統は天智の娘。二人の子が草壁皇子。
- 次の世代草壁皇子 → 文武天皇
草壁は689年死去。持統が690年即位し、697年に文武へ譲位。
親子関係・婚姻・即位の順序を抜粋した学習図。天皇全員や配偶者・子女の全員を示すものではありません。大友皇子の同時代の即位の有無は議論があります。
大友皇子と大海人皇子
天智天皇の死後、その子の大友皇子を中心とする近江側と、天智の弟・大海人皇子側が争います。大海人皇子は吉野から動き、東国との交通に関わる不破などの要地を押さえ、各地の勢力を結びつけました。
672年の壬申の乱では大海人皇子側が勝利し、673年に天武天皇として即位します。大友皇子に用いられる弘文天皇という追号は、明治時代のものです。同時代の即位の有無には議論があるので、近江朝の中心人物であったことと区別して述べます。
勝利から制度づくりへ
乱は、地域の有力者や兵士、運ばれる物資によって支えられました。史書に名の残る王族・将だけでなく、道を通り、渡河し、食料を集めた多くの人々がいたはずです。戦争を人物の決断だけで説明しない視点も大切です。
天武政権は勝利後、王権の制度化を進めます。ただし、勝ったから何でも自由に決められた、と単純化はできません。協力した人々を位置づけ、官僚や地方行政を整える必要がありました。内戦後の統治も、政治の大きな課題です。
この章の要点
壬申の乱は672年。大海人皇子の勝利は、地域勢力と交通路の確保にも支えられた。
12 王の力を、役所とルールにする
強い王がいるだけでは、離れた地域の仕事はそろいません。人を役職に置き、身分や文書の仕組みをつくる必要があります。
八色の姓と、法の編纂
天武朝には、氏族の序列を組み替える八色の姓が684年に定められました。603年の冠位十二階が主に個人の位に関わるのに対し、こちらは氏族の姓の再編です。似た「序列をつくる制度」でも、単位が異なります。
681年には律令の編纂が命じられます。命令を出した年と、完成・施行の年を同じにしないことが大切です。天武天皇の死後も作業は続き、持統朝の飛鳥浄御原令、大宝律令へつながりました。
天皇・日本という名も、歴史の中で生まれる
このころ、王権の称号や対外的な国の呼び名も変化していきます。「天皇」や「日本」がいつ、どの場で定着したかは、文字史料・木簡・金石文や中国側の記録を照合して考えられています。一つの年にすべてが一斉に決まったと言い切れない論点です。
国家の物語や儀礼も整えられました。『古事記』『日本書紀』の完成は奈良時代ですが、その前段階の取り組みは飛鳥にさかのぼります。史書は古い伝承を伝えると同時に、編纂した時代の政治的な関心も映します。
この章の要点
天武朝の制度化は持統・文武朝へ続く。「命令・完成・施行」と史料の成立を区別する。
13 持統天皇がつないだ、人・土地・都
持統天皇は、天武天皇の後の政治を担いました。戸籍と法と都の整備を重ねて見ると、次の時代への橋が見えてきます。
草壁皇子の死と、王位の継承
天武天皇の皇后であった持統天皇は、天智天皇の娘でもあります。天武との子・草壁皇子は689年に死去しました。持統天皇は690年に即位し、697年には草壁の子・文武天皇へ位を譲ります。王位継承には世代を越える調整がありました。
689年に飛鳥浄御原令が施行され、690年には庚寅年籍がつくられます。原文が完全に残る法典ではないため、後の記録から内容を推定する部分もあります。整備された仕組みが実際に地域でどう運用されたかも、重要な研究の対象です。
694年、計画都市・藤原京へ
藤原京は、広い道路で区画した京と、中心の宮を組み合わせた計画都市でした。天武朝から準備が進み、持統朝の694年に遷都します。宮は政治と儀礼の中枢、京はその周囲の都市です。二つは同じ範囲を指す言葉ではありません。
発掘は、藤原京の広がりや造営の過程について、従来の想像を更新してきました。新しい都をつくるとは、整地や木材の運搬、住む場所の変更を伴う事業です。都の整った図の背後には、それをつくる人々の労働がありました。
| 名称 | 時期 | 何を表す? |
|---|---|---|
| 庚午年籍 | 670年・天智朝 | 氏姓や所属を確かめる重要な戸籍 |
| 飛鳥浄御原令 | 689年施行・持統朝 | 天武朝からの法整備を引き継ぐ |
| 庚寅年籍 | 690年・持統朝 | 律令制へつながる戸籍の整備 |
| 藤原京 | 694年遷都 | 宮と条坊を備えた計画都市 |
この章の要点
持統朝は、天武朝の制度を受け継ぎ、戸籍・令・藤原京を次の世代へつないだ。
14 金色の仏像の向こうに、人の暮らしがある
飛鳥文化や白鳳文化という名は、美しい作品を並べるだけの札ではありません。人の往来と社会の変化を読む手がかりです。
飛鳥文化と白鳳文化
飛鳥文化は、推古朝を中心とする初期の仏教文化を指すときによく使います。鞍作鳥に関わる仏像などには、中国や朝鮮半島の造形とのつながりが見られます。白鳳文化は七世紀後半から八世紀初めを中心に捉える呼び方ですが、範囲には幅があります。
法隆寺は607年の創建が伝えられる一方、670年の火災と、その後の再建を区別して考える必要があります。いま見る西院伽藍を、すべてそのまま607年の建物と説明するのは適切ではありません。寺の歴史にも、つくり直す時間が重なっています。
文字を使う社会と、負担を担う人々
木簡には、物資の荷札や行政の記録などが残ります。華やかな史書と違い、どこの何が運ばれたか、役所がどう働いたかを具体的に伝えることがあります。文字を書く人、読む人、物を運ぶ人が結ばれて、仕組みが動きました。
王族や官人の歌も、『万葉集』に伝わります。額田王や柿本人麻呂らの歌は時代の感情に触れる入り口ですが、歌の話者や表現を、出来事のそのままの記録と考えてはいけません。農作業・造営・戦争の負担を担った、名前の残らない人々にも想像を向けましょう。
この章の要点
文化財・木簡・歌は、それぞれ違う角度から飛鳥の人々を伝える。
15 701年の法、710年の都。奈良へ続く
飛鳥時代の終わりは、物語の終わりではありません。法と役所と人の関係は、奈良時代の出来事を理解する土台になります。
大宝律令を動かす
文武天皇の時代、701年に大宝律令が完成します。刑部親王や藤原不比等らが編纂に関わりました。律は刑罰、令は行政や人々の生活に関する制度を定めます。法典ができても、それを読む官人・文書・人々の把握がなければ機能しません。
国・郡・里の行政、戸籍、田を与え税を負担させる仕組みは、奈良時代の教科書でさらに詳しく学びます。708年の和同開珎も、銭を発行すればすぐ全国の買い物が貨幣だけになる、という話ではありません。制度の理想と、地域の実際の暮らしには距離があります。
元明天皇が平城京へ
文武天皇の死後に即位した元明天皇は、710年に都を平城京へ移します。元明は草壁皇子の妃、文武の母であり、持統の異母妹です。元明・文武・聖武の関係をたどると、飛鳥と奈良が一つの家族の線でもつながります。
藤原不比等は、奈良時代初めにも重要な役割を果たします。その父が乙巳の変に関わった鎌足であり、不比等の子たちが藤原四家の祖です。政変、法づくり、婚姻、次の世代。飛鳥で見た仕組みが、奈良の政治を動かしていきます。
この章の要点
大宝律令と平城遷都は、飛鳥の長い制度づくりを奈良時代へ引き継ぐ。
年表で、つなぎなおす。
出来事の順序と前後関係を確かめましょう。各項目から、対応する本文と出典へ戻れます。
538年 仏教公伝の一説
552年説もあり、公的な伝来以前の信仰や交流とも区別する。
587年 物部守屋が敗れる
蘇我馬子側との争い。宗教だけでなく、王位継承や主導権も関わる。
588年 飛鳥寺の造営開始
百済から来た技術者たちが寺づくりを支えた。
592年 推古天皇が即位
本書ではここから710年を飛鳥時代の中心として扱う。
600年 隋の記録に倭の使節
中国側史料からわかる遣隋使。
603年 冠位十二階
個人の冠位による序列づけを進める。
604年 十七条憲法の伝承
『日本書紀』が伝える。現代の憲法とは性格が異なる。
607年 小野妹子を隋へ
国書と外交、留学生の活動を重ねて捉える。
608年 裴世清が来訪
隋の使者を迎える。
630年 最初の遣唐使
隋から唐へ、中国大陸の王朝も変化していた。
642年 皇極天皇が即位
後に斉明天皇として再び即位する人物。
645年 乙巳の変
蘇我入鹿が殺され、蝦夷も死去。孝徳天皇が即位。
646年 改新の詔の記述
後に成立した『日本書紀』が伝える方針。実施過程と分けて読む。
655年 斉明天皇として重祚
皇極天皇と同じ人物の二度目の即位。
660年 百済の滅亡
唐・新羅が百済を滅ぼす。復興運動を倭が支援する。
661年 斉明天皇が九州で死去
白村江の戦いより前の出来事。
663年 白村江の戦い
倭・百済復興側が唐・新羅側に敗れる。
667年 近江大津宮へ
中大兄皇子が政治の拠点を移す。
668年 天智天皇が即位
中大兄皇子の即位。
669年 鎌足に藤原の姓
中臣鎌足から、後の藤原氏へつながる。
670年 庚午年籍
氏姓や所属を確認する重要な戸籍。法隆寺の火災もこの年。
671年 天智天皇の死
翌年に王位継承をめぐる内戦が起こる。
672年 壬申の乱
大海人皇子側が大友皇子の近江側に勝利。
673年 天武天皇が即位
大海人皇子が王権の制度化を進める。
681年 律令編纂の命令
法づくりは天武の死後も続いた。
684年 八色の姓
氏族の姓を再編する。冠位十二階と単位が違う。
689年 飛鳥浄御原令の施行
草壁皇子が死去した年でもある。
690年 持統天皇の即位・庚寅年籍
戸籍の整備を進める。
694年 藤原京への遷都
天武朝からの造営を持統朝が引き継ぐ。
697年 文武天皇が即位
持統が孫へ位を譲る。
701年 大宝律令の完成
刑部親王・藤原不比等らが編纂に関わる。
708年 和同開珎
銭貨の発行と、その普及は分けて考える。
710年 平城京への遷都
元明天皇のもと、奈良時代へつながる。
人物から、読み返す。
読み方・役割・つながりを整理します。詳しい説明と出典は、対応する本文で確認できます。
蘇我稲目
そがのいなめ / 仏教受容期の有力者
蘇我氏の勢力拡大を考える最初の世代。馬子の父。
参照 本文へ
蘇我馬子
そがのうまこ / 推古朝を支える
物部守屋との争い、飛鳥寺の造営、推古朝の政治に関わった。
参照 本文へ
蘇我蝦夷
そがのえみし / 入鹿の父
645年、入鹿の殺害後に死去。蘇我氏すべての人が絶えたわけではない。
参照 本文へ
蘇我入鹿
そがのいるか / 乙巳の変の当事者
645年に宮中で殺害された。馬子・蝦夷と世代を区別する。
参照 本文へ
推古天皇
すいこてんのう / 592年即位
厩戸王や蘇我馬子とともに、制度・外交・仏教の展開の時代を担った。
参照 本文へ
厩戸王(聖徳太子)
うまやどのおう・しょうとくたいし / 王族・後世の信仰の対象
『日本書紀』に政治の補佐や改革が記される。具体的な役割と後世の太子像を分ける。
参照 本文へ
物部守屋
もののべのもりや / 587年の争い
蘇我馬子側と争い敗れた。宗教だけでなく政治的な対立も重なる。
参照 本文へ
小野妹子
おののいもこ / 遣隋使
607年の派遣で知られる。留学生たちの長い活動にも注目したい。
参照 本文へ
裴世清
はいせいせい / 隋の使者
608年に来訪。相手側から来る外交使節もいた。
参照 本文へ
高向玄理
たかむこのくろまろ / 留学生・改革の知識
海外で学び、帰国後の政治や制度づくりに関わった。
参照 本文へ
皇極・斉明天皇
こうぎょく・さいめいてんのう / 同一人物の重祚
642年と655年の二度の即位。661年に九州で死去した。
参照 本文へ
孝徳天皇
こうとくてんのう / 645年即位
乙巳の変後の天皇。難波を政治の拠点とした。
参照 本文へ
中大兄皇子・天智天皇
なかのおおえのおうじ・てんじてんのう / 政変から近江朝へ
乙巳の変に関わり、667年大津へ移り668年に即位。670年の庚午年籍。
参照 本文へ
中臣鎌足・藤原鎌足
なかとみのかまたり・ふじわらのかまたり / 藤原氏へつながる
645年の政変に関わる。669年に藤原の姓を与えられた。
参照 本文へ
大友皇子
おおとものおうじ / 壬申の乱の近江側
天智の子。後の弘文天皇の追号と、同時代の即位の議論を区別する。
参照 本文へ
大海人皇子・天武天皇
おおあまのおうじ・てんむてんのう / 壬申の乱の勝者
天智の弟。672年の乱に勝利、673年即位。制度整備を進めた。
参照 本文へ
持統天皇
じとうてんのう / 制度を次へつなぐ
天智の娘・天武の皇后。690年即位、694年藤原遷都、697年譲位。
参照 本文へ
草壁皇子
くさかべのおうじ / 天武・持統の子
689年に死去。子の文武天皇へ続く継承を考える要となる。
参照 本文へ
文武天皇
もんむてんのう / 大宝律令の時代
草壁と元明の子。697年即位、701年大宝律令の完成。
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元明天皇
げんめいてんのう / 奈良へつなぐ天皇
文武の母。710年に平城京へ遷都した。
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刑部親王
おさかべしんのう / 大宝律令の編纂
藤原不比等らと法典の編纂に関わった。
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藤原不比等
ふじわらのふひと / 飛鳥と奈良をつなぐ
鎌足の子。大宝律令と奈良初めの政治で重要。子たちが藤原四家の祖。
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額田王
ぬかたのおおきみ / 飛鳥の歌人
『万葉集』に歌が伝わる。歌の表現を歴史の直接記録と同一視しない。
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柿本人麻呂
かきのもとのひとまろ / 宮廷の歌人
持統朝を中心とする時代の歌が『万葉集』に伝わる。
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鞍作鳥
くらつくりのとり / 仏師
初期の仏教美術と、渡来系の技術のつながりを考える人物。
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氏
うじ
王権のもとで役割や伝承を共有した有力集団。現在の名字だけを想像しない。
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姓
かばね
氏族の地位を表す称号。現代の「姓」と読み方も意味も異なる。
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外戚
がいせき
天皇の母方の親族。婚姻と継承が政治に関わることを示す。
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渡来人
とらいじん
海を渡って移住した人々。技術だけでなく、戦争や生活の事情にも目を向ける。
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仏教公伝
ぶっきょうこうでん
王権への公的な伝来。538年説と552年説がある。
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飛鳥寺
あすかでら
588年に造営が始まる本格的寺院。蘇我馬子と百済の技術者たちが関わる。
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冠位十二階
かんいじゅうにかい
603年とされる、個人の冠位の序列。八色の姓とは対象が異なる。
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十七条憲法
じゅうしちじょうけんぽう
604年と『日本書紀』が伝える官人の規範。現代の憲法と同一視しない。
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遣隋使
けんずいし
隋への使節。中国側には600年の記録があり、607年の小野妹子の派遣が有名。
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遣唐使
けんとうし
唐への使節。630年から始まり、奈良・平安にも続く。
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留学生・学問僧
りゅうがくせい・がくもんそう
海外で長く学んだ人々。帰国後の法・暦・仏教などの知識を支えた。
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乙巳の変
いっしのへん
645年に蘇我入鹿らが倒れた政変。改革の過程全体とは区別。
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大化の改新
たいかのかいしん
645年の政変後の改革。制度は長い期間をかけて整備された。
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改新の詔
かいしんのみことのり
646年に出されたと『日本書紀』が記す方針。後の用語の反映にも注意。
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公地公民
こうちこうみん
人と土地を王権が把握する理念。すべての私的支配が直ちに消えたという意味ではない。
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評
こおり
七世紀の地方行政単位。木簡に見られ、大宝律令後の郡表記と区別する。
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重祚
ちょうそ
一度退位した天皇が、再び即位すること。皇極と斉明は同一人物。
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漏刻
ろうこく
水の流れを使って時を測る装置。時間を知らせ、儀礼や仕事をそろえる。
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白村江の戦い
はくすきのえのたたかい
663年、倭・百済復興側が唐・新羅側に敗れた戦い。
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防人
さきもり
主に九州などの防衛に当たった人々。地方の負担とも結びつく。
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庚午年籍
こうごねんじゃく
670年の戸籍。氏姓・所属を確かめる重要な基準となった。
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近江大津宮
おうみおおつのみや
667年に移った政治の拠点。移転と天智の即位は年が異なる。
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壬申の乱
じんしんのらん
672年の王位継承をめぐる内戦。大海人皇子側が勝利。
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八色の姓
やくさのかばね
684年、氏族の姓の序列を再編した制度。
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律令
りつりょう
律は刑罰、令は行政・身分・土地や税などの基本制度を定める。
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飛鳥浄御原令
あすかきよみはらりょう
689年に施行された令。天武朝の編纂を持統朝へ引き継ぐ。
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庚寅年籍
こういんねんじゃく
690年の戸籍。670年の庚午年籍と読み・年を区別する。
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藤原京
ふじわらきょう
694年に遷都した計画都市。藤原氏の私有都市という意味ではない。
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宮と京
みやときょう
宮は政治・儀礼などの中枢、京はその周囲を含む都市の範囲。
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飛鳥文化
あすかぶんか
推古朝を中心とする初期仏教文化。東アジアの造形と深く結びつく。
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白鳳文化
はくほうぶんか
七世紀後半〜八世紀初めを中心とする文化の呼び方。期間の取り方には幅がある。
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木簡
もっかん
文字を記した木の札。荷札や役所の記録から実務を知ることができる。
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大宝律令
たいほうりつりょう
701年完成。刑部親王・藤原不比等らが編纂に関わった。
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富本銭
ふほんせん
飛鳥池遺跡などから知られる初期の銭貨。用途や流通は慎重に考える。
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和同開珎
わどうかいちん
708年の銭貨。発行と、全国への貨幣取引の普及は別の問題。
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似ているところこそ、丁寧に。
名前・年号・制度の意味。混同しやすいところを読み比べます。
538年と552年
仏教公伝の年代には異なる史料にもとづく説がある。公伝以前の信仰・交流がなかったという意味でもない。
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聖徳太子一人が改革した?
推古天皇・蘇我馬子など複数の担い手がいた。後世の太子信仰と、同時代の役割の検討を分ける。
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645年と646年
645年は乙巳の変。646年は『日本書紀』が改新の詔を記す年。改革の制度化はその後も続く。
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蘇我氏は全員いなくなった?
蝦夷・入鹿の本宗家の失脚と、蘇我氏のすべての系統の消滅は同じではない。
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皇極と斉明
同じ人物の二度の即位。斉明の死は661年で、白村江の戦いは663年。
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冠位十二階と八色の姓
603年の冠位は主に個人の位、684年の姓は氏族の序列。誰を単位とする制度かを確かめる。
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庚午と庚寅
庚午年籍は670年・天智朝。庚寅年籍は690年・持統朝。どちらも戸籍だが、時期と役割を分ける。
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藤原京と藤原氏
藤原京は694年に遷都した都の名。藤原氏の私有の都を意味しない。
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大友皇子は弘文天皇?
弘文の追号は明治時代。同時代に即位したかは議論があり、壬申の乱の近江側の中心であったことと分ける。
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古いお寺は、全部創建時の建物?
法隆寺は607年の創建が伝わるが、670年の火災と再建を区別する。いまの伽藍を丸ごと創建年に戻さない。
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根拠をたどる、学びへ。
本文・図表は、次の資料を参照して独自に構成しました。リンク先の文章や画像を転載した教材ではありません。
この教材と、出典の読み方
中学〜高校の日本史の重要な出来事を、背景・政治・社会・文化のつながりで学ぶ概説です。すべての人物や研究論点を網羅するものではありません。博物館・研究所・自治体・寺院などの公式解説と研究資料を中心に、原典そのものと現代の解説を区別して参照しました。伝承や顕彰の言葉を、そのまま確定した史実として扱わないようにしています。
参照確認日:2026-10-18 編集:がっけんぽスタディ。外部資料は別タブで開きます。PDFは資料名などに明記。
[1] 奈良文化財研究所 飛鳥資料館
飛鳥に宮が置かれた時期と、遺跡・出土品を通した時代像。
[2] 明日香村
宮の変遷と、東アジアの動きを照合するための年表。
[3] 奈良国立博物館
仏教公伝の年代、蘇我氏、飛鳥寺、法隆寺と初期の仏教美術。
[4] 東京国立博物館
太子の政治・仏教との関係、および後世の太子信仰を区別する手がかり。
[5] 東京国立博物館
十七条憲法の伝承と、後世に伝えられた法隆寺の文化財。
[6] 奈良県・記紀万葉プロジェクト
専門家による政争・国際関係・壬申の乱の解説。動機の説明は解釈として扱った。
[7] 奈良県・記紀万葉プロジェクト
天武・持統朝、国家の制度化、飛鳥の遺跡。
[8] 奈良文化財研究所
藤原京の都市計画・造営・発掘成果。宮と京の区別にも参照。
[9] 奈良文化財研究所 飛鳥資料館
漏刻による時刻の管理と、『日本書紀』に記された時の制度。
[10] 奈良国立博物館 正倉院展用語解説
大宝律令・養老律令と、律・令の基本的な意味。
[11] 奈良文化財研究所
戸籍・計帳の用途と、人々を把握する仕組み。
[12] 奈良文化財研究所
木簡が示す地名・物資・行政の実務。
[13] 造幣局
富本銭・和同開珎など初期の銭貨。
[14] 奈良県立万葉文化館
飛鳥から奈良にかけての歌人と、歌が伝える時代。
[15] 平城宮跡歴史公園
710年の平城遷都と、飛鳥・藤原から奈良への接続。
読み終えたら、時代がつながる。
本文を読み、図を眺め、わからない言葉に戻る。読み方は一つではありません。ほかの時代の教科書も開いて、前後のつながりを確かめてみましょう。
